いや〜、相変わらずNetflix攻めてますよね。
Netflixのコンテンツの強みは、映画好きが唸る監督やスタッフの人選と、馬鹿でかい金を投入してその人たちにやりたい事をやらしてあげる懐の広さだと思いますが、それにしても「Mank」はよくこんなの作ったなと感じる一作でした。
80年前の映画の脚本家の話を、しかも当時のスタイルに従って白黒&モノラル音声で描き出す、、
マジで一見さんお断りにも程がありますよ。
というわけで完全に映画好きに向けて、かつ予備知識ある前提で作られたNetflix作品「Mank/マンク」をがっつり観た人向けにレビューしていきます。
物語のポイントをおさらい
あらすじ
社会を鋭く風刺するのが持ち味の脚本家・マンク(ゲイリー・オールドマン)は、アルコール依存症に苦しみながらも新たな脚本と格闘していた。それはオーソン・ウェルズが監督と主演などを務める新作映画『市民ケーン』の脚本だった。しかし彼の筆は思うように進まず、マンクは苦悩する。
(シネマトゥデイより引用)
「Mank/マンク」では元ネタの『市民ケーン』よろしく現在と過去の時制を行き来する構成をとっているわけですが、その中で明かされていく最も大きなフックとして機能しているトピックは、なぜマンキウィッツ(以下マンク)は『市民ケーン』を執筆すると決めたのかという動機の部分です。
ミステリジャンルでいうところのホワイダニット(Why done it?)なわけですね。
当時の人間が見れば明らかに新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていると明白なキャラクター「ケーン」を、孤独な男として描く。しかもマンクは実際にハーストと交流を持っていたうえに、なんなら少し可愛がられてもいたほどなのです。
確実に受けるであろう周囲からの反対の声や向かい風を承知で、なぜそのように身内をネタにしたうえで、ハーストを虚しい人間として告発するような脚本を書くに及んだのか。。
大いなる映画には大いなる責任が伴う
「Mank/マンク」においてはその答えを1934年のカリフォルニア州知事選に見出しています。
知事選に立候補したアプトン・シンクレアは資本主義の構造に警鐘を鳴らした情熱的な社会活動家で、かなり急進的な改革を打ち出すことにより世界恐慌の最中にあった当時、労働者たちの支持を集めていました。
シンクレア本人は画面内に登場しませんが、劇中明らかにマンクは彼の支持者であることが示唆されます。
マンク本人の想いとは裏腹にハリウッド業界は、その後ろ盾であるハーストやMGMの経営者ルイス・B・メイヤー(要は金持ちの皆さま!)のもと絶妙に脚色された"事実"を伝えるニュース映画を使い、大々的にアンチ・シンクレアキャペーンを打ち出します。
しかもこのフェイクニュースを用いるという手法は、マンクが皮肉として重役に述べた「映画という"嘘"をつくのが上手いのだから、有権者にも好きなように信じ込ませればいいじゃないか」という発言から着想を得て展開されたものでした。
「投票権のある大人なら信じないよな」というマンクの考えは証明されることなくキャンペーンは成功。シンクレアは選挙に敗北します。劇中ではそれに続く悲劇も描かれました。
この映画の力によって引き起こされた悲劇(少なくともマンクにとっては)に対して、同じく映画の力によって一矢報いるためにマンクは『市民ケーン』の脚本を描きあげ、ハーストを告発するに至った、というのが「Mank/マンク」という作品が導き出している真実です。
そもそもとして「Mank/マンク」では、誰が『市民ケーン』の脚本を書いたのか?という点において現在はすでに否定されている"マンキウィッツ単独執筆説" をあえて執っています。
この脚色は前述した、映画が起こしてしまった悲劇に対して、同じく映画の力で一矢報いるひとりの男の話、という物語の軸をより強調するためと言えるでしょう。つまり「Mank/マンク」というこの映画自体もまた、絶妙に脚色された"事実"を提示しているのです。
実際には『市民ケーン』の監督であるオーソン・ウェルズが脚本に関与した部分も大きいのですが、完全な真実に沿うことでテーマがぼやけるくらいならばそんな要素は切ってしまえ、というのは物語を作るうえでよく行われることですね。
さて、では映画が起こしてしまった悲劇に対して、同じく映画の力で一矢報いる話で、かつ事実を大胆に脚色した作品といえばもうひとつあります。
「イングロリアス・バスターズ」です。
イングロリアス・バスターズとの比較
「イングロリアス・バスターズ」
クエンティン・タランティーノ監督、2009年
あらすじ
戦火の嵐が吹き荒れるヨーロッパで、ナチス兵を襲い頭皮を剥ぎ血祭りにあげる、アメリカ軍のゲリラ部隊が暴れまわる! 敵に“バスターズ”と呼ばれ恐れられる、そのナチス狩り部隊を率いるのは、ブラッド・ピット演じるアルド・レイン中尉。彼らは、大胆不敵にも第三帝国の首脳陣暗殺の計画を決行しようとする。
(Filmarksより引用)
ポスタービジュアル等でブラピが非常に推されているので完全な主役なのかと思いきや、実はひとりのユダヤ人女性ショシャナ(メラニー・ロラン)のナチスドイツに対しての復讐劇が大きな見どころとなっている作品でした。
ショシャナは幼少期にナチス親衛隊の「ユダヤ・ハンター」ことランダ大佐によって家族を皆殺しにされており、逃げ延びた先のフランス・パリで身分を偽って叔父夫婦から受け継いだ映画館を営んでいます。
ドイツ軍の英雄フレデリックに見初められたことをきっかけに、自らの映画館でナチスのプロパガンダ映画『国家の誇り』をプレミア上映することになったショシャナは、総統ヒトラーやゲッベルス宣伝相を含むナチス高官たちが一同に会する上映会の機に乗じて、ナチスへの復讐の計画を練ります。
その計画とは、上映の最中に劇場を閉鎖し観客たちに逃げられないようにしたうえで、大量に保管しているフィルムに火を放ち(50年代になり不燃性のものに移行するまでフィルムは非常に燃えやすいものだった)映画館ごと焼き尽くすというものでした。
そしてその結果の部分が非常にタランティーノらしくて面白いところなのですが、史実に対して大幅な脚色が加えられており、ヒトラーもゲッベルスも見事なまでにその場でぶっ殺されます。(史実では2人とも自殺)
この作品でタランティーノが行ったこと
実際の歴史において、残念なことに映画がナチスドイツの発展に寄与した部分は大きく、ナチスは
これまで一般的でなかった政治宣伝映画に目を付け、アメリカの20世紀フォックス社の技術提供を受けて、当時のドイツの技術力では困難だった野外でのサウンド映画を可能にして政治宣伝映画を盛んに放映した。
(モムゼン, ハンス『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』関口宏道訳)
という事実があります。
やはり脚色された"事実"というのは人々を惹きつけ、良くも悪くも一定のイデオロギーに導いていってしまいます。そしてその結果、歴史においてはホロコーストという最悪の事態にまで至ってしまいました。
そこでタランティーノは大胆な脚色をしました。「イングロリアス・バスターズ」では、虐げられてきたユダヤ人が文字通り映画(フィルム)の力でナチスに逆襲するのです。
「Mank/マンク」が脚本を書いて告発するというスマートな手段なのに対して、「イングロリアス・バスターズ」ではフィルムを燃やすという超物理的な手段なのが面白いところ。
映画館が火に包まれるなか煙が立ち込めて劇場内に充満し、その煙に映写機から投影された映像が悪夢的にゆらめく、というクライマックスのシーンは白眉で、明らかにタランティーノがこの"映画による逆襲"の部分を見せたいんだなというのが伝わってくる名シーンでした。
「イングロリアス・バスターズ」もまた、映画が起こしてしまった悲劇に対して、同じく映画の力で一矢報いる話で、かつ事実を大胆に脚色した作品だったわけです。
まとめ
というわけで以上が私ゴボウが、フィンチャーとタランティーノに意外な共通点を見出したというお話でした。
テーマ性の部分だけでなく映像スタイルへの拘り方も個人的には似ていると思っていて、もちろんぱっと見は全然違うのですが、どちらも過去の映画への執着的なまでのオマージュを捧げているという点は一致しているのかなと感じます。
フィンチャーはステディカムなどを導入以前のよりクラシカルな映画、タランティーノはヤクザ映画やブラックスプロイテーション等のより俗物的な映画といった具合ですね。
今回は「Mank/マンク」と「イングロリアス・バスターズ」を比較して批評しましたが、両監督ともそれぞれ「ソーシャル・ネットワーク」、「ジャンゴ 繋がれざる者」と同じようなつくりでほかにも作品を撮っています。そこも併せて考えてみるとより興味深いかもしれません。
ただ1点明らかに対照的なところはあって、会話シーンです。
どちらの監督も会話劇の演出に長けているのは間違いないのですが、フィンチャーは無駄な枝葉をバッサリ切ってとにかく最短ルートを走りつつ、ウィットに富んで洗練されたやりとりで展開していきます。
それに対しタランティーノは、枝葉も含めてとにかく手数勝負。なんだその話しょーもねぇな、とツッコミを入れたくなるような駄話も交えつつユーモラスさと親しみやすさがある会話を展開していきます。
まぁ、私はどっちも大好きなんですけどもね。
■ 参考記事